なぜ私たちはお金を稼ぐことに罪悪感を抱くのか?
「お金の話をするのは品がないような気がして避けてしまう」 「楽して稼ぐなんて、どこか悪いことをしているような感覚になる」
こんな風に感じたことはありませんか?実はこれ、あなただけの感覚ではありません。多くの日本人が、お金を稼ぐという行為に対して、言葉にならない複雑な感情を抱いているのです。
私たちの心の奥深くには「お金=汚いもの」「楽して稼ぐ=悪いこと」といった価値観が根強く刻み込まれています。学校教育でも家庭でも、お金について正面から学ぶ機会はほとんどなく、むしろ「お金の話は品がない」として避けられてきました。
この心理的なハードルが、私たちの経済的な成長や新しいチャレンジを妨げているとしたら、それは非常にもったいないことではないでしょうか。今日は、この見えない壁の正体を探り、なぜ私たちがお金を稼ぐことに対してブレーキをかけてしまうのか、一緒に考えてみたいと思います。
深く刻まれた「お金への罪悪感」の源流
日本社会には独特のお金観が存在します。それは「清貧の美学」とも呼べる価値観で、お金を稼ぐことよりも、慎ましやかに生きることを美徳とする考え方です。この価値観は、どこから来たのでしょうか。
歴史を振り返ると、江戸時代の身分制度では「士農工商」という序列があり、商人は最下位に位置づけられていました。
お金を扱う商売は「卑しい仕事」とされ、武士道精神では「金銭への執着は恥ずべきこと」とされていたのです。また、仏教の教えでも「欲望を捨てることが悟りへの道」とされ、物質的な豊かさを求めることは精神的に劣ったこととして扱われてきました。
明治維新以降、日本は急速に近代化を進めましたが、この根深い価値観は完全には変わりませんでした。戦後の高度経済成長期においても、「企業戦士」として会社に尽くすことが美徳とされ、個人がお金を稼ぐことよりも、集団への貢献が重視されたのです。
こうした歴史的背景が、現代の私たちの心にも深く影響を与えています。「お金を稼ぐこと=何か後ろめたいこと」という感覚は、決して個人の性格の問題ではなく、長い間培われてきた文化的な刷り込みなのです。
「楽して稼ぐ」ことへの異常な嫌悪感
特に強いのが「楽して稼ぐことは悪いこと」という思い込みです。汗水垂らして働くことが美徳とされ、効率的にお金を稼ぐことは「ずる」だと感じてしまう。この感覚も、実は日本特有のものかもしれません。
例えば、投資で利益を得ることに対して「働かずにお金を得るなんて」という批判的な目を向ける人は少なくありません。
副業で効率よく稼いでいる人を見て「楽しているだけじゃないか」と感じてしまう。
しかし、冷静に考えてみると、これらの活動には相当な学習や努力、そしてリスクが伴っているはずです。
アメリカなどでは「スマートに稼ぐ」ことは称賛の対象となります。少ない労力で大きな成果を上げることは「効率的で素晴らしい」と評価される。しかし日本では「苦労してこそ価値がある」という精神論が根強く、効率性よりも努力の過程が重視されがちです。
この価値観が、私たちが新しい稼ぎ方にチャレンジすることを心理的に阻んでいるのです。「こんなに簡単にお金が稼げるなんて、何か間違っているのではないか」「もっと苦労しなければ、本当のお金ではない」。そんな風に感じてしまうのは、決してあなたが特別だからではありません。
サラリーマンという「安全地帯」の心理的影響
そして、多くの日本人が選択するサラリーマンという働き方も、お金を稼ぐことへの心理的ハードルを高めています。
毎月決まった日に決まった金額が振り込まれる安心感は、確かに大きなメリットです。しかし、その安心感と引き換えに、私たちは「自分でお金を稼ぐ」という感覚を失っているのかもしれません。
給料は「会社からもらうもの」であり、自分の努力や能力と直接結びついている実感が薄い。昇進や昇給も、多くの場合は年功序列や人事評価によって決まり、自分がコントロールできる部分は限られています。
この環境に慣れ親しんでしまうと、「自分の力でお金を稼ぐ」ということが、まるで別世界の話のように感じられてしまうのです。
さらに、サラリーマン社会には「出る杭は打たれる」という文化があります。副業で成功したとしても、それを職場で公言することは憚られる。
同僚よりも収入が多くなることで、人間関係に影響が出ることを恐れてしまう。結果として、新しいことにチャレンジすること自体に心理的な抵抗を感じるようになってしまいます。
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